OB【4期生 内田 了介】 涙拭い誓った完全燃焼 Honda熊本・内田

【4期生】 内田 了介

埼玉栄高等学校 → Honda 熊本硬式野球部(投手)(2023年7月)

 

涙の日から1年 プロ注目、高卒3年目右腕の胸の内

●【毎日新聞】新聞記事2023/07/13

「野球をやめる」。涙を流し、父に報告した日からもうすぐ1年になる。プライドやけが、人間関係に悩んでいた姿は影を潜めてきた。大津町・Honda態本の内田了介(20)。現役続行を決意したプロ注目右腕の胸の内に迫った。

埼玉栄高から入社して3年目。最速153♂を誇る直球の1分間あたりの回転数は、「ラプソー、ド」で計測すると2600を超える。
「ラプソード化け物やラプソード職人と呼ばれるんですよ」
今季がプロ野球・ドラフト会議の解禁年となる右腕は屈託なく笑う。4月に全日本野球協会が公開した社会人野球日本代表選手ちを上回る数値だ。渡辺正健監督(53)も「いいものを持っている」と太鼓判を押す。
高卒1年目の2021年から都市対抗野球大会の九州2次予選で先発を任されるなど順風満帆だった。その直後に転機は訪れる。「投球していたら腕がバキツという感覚になった」。右肘を痛め、診断結果は骨蘇(こつきょく)の剥離骨折。準優勝した都市対抗もベンチ外を味わった。
「高校までは自分が一番だと思ってプレーしてきた。でも大人の世界を見た。うまい人はいっぱいいて、レベルは高い。心を開ける相手もなかなかいなくて人間関係も苦しかったです」
野球人生で味わった初めての大けがは、精神面もむしばんでいた。入社してからずっとチーム最年少。高校時代とは違い年齢の離れた選手が多く、環境にも戸惑いを隠せなかった。けがから復活し、2年目の都市対抗九州2次予選でも登板。

優勝したJABA北海道大会でも先発を任されたが、日々のモヤモヤ感が晴れることはなく、練習にも影響をきたしていた。
一つの決断を下したのは22年の8月。都市対抗本大会が終わってからだった。「野球をやめます」。練習場で渡辺監督に伝えた。
「野球なんかどうでもよくなっていた。チームにもなじめていなかった。反抗期だったと思います」
高校3年の時も新型コロナウイルスで夏の全国高校野球選手権大会が中止となり、野球をやめようと思ったことはあったが、指導者に訴えたのは初めてだった。
渡辺監督からは親にその場で電話するように促された。泣きじゃくる中で、父の携帯に連絡。「野球が好きだからやっているわけではない。野球をやめる」と話した。
父は頭ごなしに説得することはなかった。「野球をやめる時期は来るだろうが、それが今かどうかは考えてごらん。背伸びして先輩の熱量についていくと立ち位置に悩んでしまう。自分の背丈のままでいったら]とアドバイスを送った。
父との電話で、内田も冷静になれた。
「やりたいというか、やらないといけない自覚が出てきた。(先輩たちは)30歳になってもなぜ野球ができるのかと思っていたが、自分のためだけじゃないということに気がついた。弱音は吐けないと思い、監督にもう一回やらせてほしいとお願いしました]
心を入れ替えると行動に出た。練習の合間に、外野のフェンス沿いにある雑草を抜いた。グラウンド周辺の側溝の掃除もした。どれも地道な作業だ。現在はコーチも兼任する北村優(30)らが理解者となってくれ、10月末から始まる日本選手権前まで黙々と続けた。
「大人は行動を見ていると北村さんにも言われた。真剣にやったら何かが変わるんじゃないかと。自分の感覚としては、一人のチームメートとして少しずつ見られるようになってきたのかなと思います」
冬場のトレーニングではネットスローでフォーム固めに努め、チームの中でも最後まで筋力トレーニングに励んだ。
3年目にして都市対抗九州2次予選では、初めて登板の機会はなかった。しかし、今季は5月のJABA九州大会でも好投。クイックなどの投球術を覚え、変化球も球種を絞ったことでコントロトかも安定。渡辺監督も「チャンスがあれば東京ドームで投げさせたい」と期待を寄せる。
練習では大きな声を出し、トレーニングに励む姿を見せながらも「野球人生でまだ完全燃焼したことがない」と語る。日本選手権を含め社会人野球の2大大会での登板はないが、都市対抗の舞台は高校3年の時に、。プロ志望高校生合同練習会」でプレーした東京ドームだ。
支えてくれた両親への感謝やチームメートの信頼を強固にするためにも、全国デビューが完全燃焼の序章となる。
【藤田健志、写真も】